「月は二度、涙を流す」そのD


 望と恵美は光に熊のぬいぐるみをプレゼントした後、食堂に行き、食事をした。食後、望は車に乗っていた例の少女を地下室へと連れていった。
 地下室の入り口は車庫の一郭にある。その事を知らないのは光だけだった。優香もその事は知っていた。望達は少女をパーティー部屋に連れてくる時、屋敷の一階の廊下の突き当たりにある非常口から外に出て、車庫へと向かい、そして少女や少年を連れてきていた。非常口から車庫は目と鼻の先だった。
 地下は最初、恵美が見つけるまではガラクタ置場になっていた。しかし、その部屋は屋敷を作る際に大工達が物置として使っていた部屋らしく、捨ててしまっても全く差し支え無い物が置かれていた。恵美は真一郎と二人だけで、その部屋を十分に人が住める程に改造した。まず、男と女の部屋を別々にする為に真ん中に仕切りを作った。そしてトイレや水道、電気までも設置し、壁には薄緑色の壁紙を張り、床に黄色い絨毯を敷いた。改造した理由は最初から、オークションで買った子供を住まわせる為だった。
 今そこには、一人だけ人が住んでいる。恵美が気紛れで買った少年だ。その少年はパーティーの時に恵美の首を誤って噛んでしまい、それ以来部屋から出されていない。望が売ると言っていた少女は、もうどこにもいなかった。
 望が少女を連れてきた時、少年はベッドの上で静かに眠っていた。ここに来た事など何も後悔していないような安らかな表情で眠っている。望は男部屋の扉を閉めると、女部屋の扉の鍵を開けた。中はにコンクリートの壁に大きなベッドだけが印象的な部屋がある。西洋風の装飾はどこにも無く、ただ人が住める、という感じの部屋。
「ここが今日から君が暮らす部屋だ。日の光は見えないけれど、決して不便はしないと思う。もし何か言いたい事があったら、あそこにある電話を取るだけでいい。‥‥‥君は喋れないんだったね。だったら、一日三回の食事の時に、ここに人が来るからその時に何か伝えればいい」
「‥‥」
 少女は首を縦に振った。そして、どこか嬉しそうに部屋の中を見て回った。純粋に自分の部屋が出来た、とでも思っているのだろう。その様子を、望は表現しにくい感情と共に眺めていた。
「僕は、君をいつまでも君と呼んでいたくない。名前を決めていいかな?」
 ベッドにゆっくりと腰掛けた望は、無邪気にはしゃぐ少女を見ないでそう言った。少女ははしゃぐのを止めて、望の横に座る。その横顔は見れば見る程、幼い頃の光に似ていた。
「‥‥マヤがいい。夜が舞う時でないと会えないから、舞夜。どう? 気に入った?」
  少し項垂れたような顔で、望は少女、舞夜を見つめた。本当は真実の名前で呼びたかった。しかし、この少女は喋る事が出来ない。オークションでは名前を使う事は固く禁止されている。紙にでも書いてもらえばよかったが、何故だかそれで満足出来なかった。それはきっと真実の彼女ではない。そんな気がした。
 だから、彼女の口自身から本当の名前を聞きたかった。でも、それはもう永遠に出来ない。
 舞夜は別段嫌がる様子も無く、それに頷いた。望は自虐的に笑い、舞夜の手の甲に口付けをすると部屋から出ていった。ここに長くいる事は出来なかった。舞夜は、その後ろ姿をいつまでもじっと見つめていた。


 車庫の中はもう完全に夜になっていた。乗ってきた車はボディが黒の為、完全に闇の中溶け込んでいる。他の車も殆ど見えなかった。明かりをつけないと殆ど何も見えない。しかし、明かりをつける事は出来ない。望は手探りで扉を探り当て、外に出る。
 外は月と星の輝きがあるお陰で、辛うじて屋敷の外郭程度は把握できた。赤い煉瓦は今はただどす黒く染まり、白い壁は月明かりを受けて死人の肌のような色になっている。望は音がしないように屋敷に近付き、裏口である一階の廊下の突き当たりの扉をゆっくりと開けた。
 廊下には誰もいなかった。冷たい空気が頬を掠め、外に逃げていく。それに入れ替わるように、望は中へと入った。
「よう、望さん。どうだい、新しい子は?」
 誰もいないと思っていたのに突然声がして、望はビクンと背筋を突っ張らせた。しかし、その声の主を発見すると大きくため息をついた。声の主は真一郎だった。真一郎は扉が開くとちょうど死角になる、扉の裏側に身を潜めていた。腕組みをして、望がやってくると待ち侘びていたかのように、大きくのびをした。
「わざわざそんな事を言う為にここにいたんですか? やめてくださいよ、母さんにでもばれたらどうする気なんですか?」
「そのお母さんなんだけどな、お前に大事な話があるんだとよ。部屋に来てくれってさ」 真一郎はポケットから煙草を取り出すと、それに火を付けた。普通の煙草の為、甘い香りは無く、鼻を突く匂いが辺りに浮遊する。それを臭ぎながら、望は眉をしかめる。
「何の用事なんです?」
「さあな、俺には教えてくれなかった。お前にしか話せない事なんだとさ」
「‥‥」
 望には思い当る節が無かった。何かしただろうか? 大学も今年で三年生になるのだから、就職の事ではない。光の事だろうか? しかし、光についてならどんな事なのか、皆目見当がつかなかった。
「考えるより、行ってみた方が早いんじゃないのか?」
 真一郎が、淡々と言う。望はその態度に些か不快感を抱いたが、言っている事に間違いは無いと思った。
「‥‥そうですね。あと、今日は僕、パーティーはやるつもりはありませんから。僕がいない時にはあの子は絶対に連れ出さないでくださいね」
 望の頭の中に舞夜の姿が浮かぶ。真一郎に、舞夜の処女を奪われたくなかった。それ以前に、真一郎とは決して交わりを持たせたくなかった。それは恵美でもだった。自分だけが、舞夜と交わりを持ちたかった。舞夜に光の面影が無くならない限り、望は舞夜を自分だけの物にしていたかった。それを理解しているのか、いないのか、真一郎は携帯灰皿をポケットから取り出して、灰になった煙草をゆっくりと落とす。
「分かってるよ」
 それだけ言うと、真一郎は足早に廊下を歩いていき、二階へと上がっていってしまった。その様子は、まるであまり望と長い時間同じ場所にいたくない、というような雰囲気だった。望の心に煮え切らない思いが残ったが、優香の用事の方が気掛かりだったので、二階へ上がらずにそのまま廊下を進み、優香の部屋に向かった。


 扉には壁掛がかかっていて、そこに可愛らしい文字で“優香の部屋”と書かれてある。その壁掛は優香がこの屋敷に来た時に、光がプレゼントしたものだ。この屋敷に来たばかりの優香はそれを快く受け取った。
 光はよく優香に懐いていると、望は感じる。実の母が死んだ時、光はまだ十三才だった。まだ母親と呼べる存在が必要な彼女は、例え嫌でも次の母親に合わせなくてはいけない、と望は考えていた。決して、本当の母を忘れて優香を母と思うようになったとは思わなかった。思いたくなかった。思ってしまったら、あの時流した涙の意味が分からなくなる。光はあの涙を永遠に忘れない。忘れるはずがない。決して忘れてほしくなかった。 
 ドアをノックする。ノックしながらも、一体彼女はどんな話をするのか、ずっと考えた。「母さん、用事があるんじゃないですか?」
 何度もノックをしても反応は無かった。望はドアノブに手をかける。ドアはキキッと言う音と共にいとも簡単に開いた。少し開けて止めるが、中から人が出てくる様子は相変わらず無い。望はゆっくりと扉を開けて中に入った。
 部屋には誰もいなかった。大した装飾もされてなく、実の母が死んだ時と殆ど変わっていない。焦茶色の机に本棚、薄緑色のカーテン、今は炎の無い赤焦茶の暖炉。望は舐めるようにその部屋の中を見回した。見た目はあの時と同じだか、匂いが違っていた。ここにはあの女の微かな香水の香りが渦巻いていた。甘い、マリファナが焼ける時と似た、あの香り。
「望さん。こっちにいるわ」
 どこからか声がした。望は声がした方を見てみる。声はトイレやバスタブのある扉から聞こえていた。声と一緒に水の跳ねる音が響いている。
 望はその扉を開けるのに躊躇した。今、入浴中だったら困る。自分とはとりあえずは母と息子という関係になっているが、血的な関係は全く無い。不用心に裸などは見れない。「入浴中なんですか? だったら、また後で来ますよ」
「いいの。いいから入って」
 中から聞こえてきた声は望の予想していた言葉ではなかった。本当に入っていいのだろうか。望は扉の前で立ち止まる。確かに優香の体は魅力的だった。恵美よりも熟れた肢体。それに触れたい欲望はあった。しかし、時折見る水晶のように透き通った瞳が、それを抑制させる。あの目に見つめられると、体が動かなくなる。そして、何も抵抗出来なくなる。
「‥‥」
 望は恐る恐る扉を開ける。すぐ左にトイレのドアがあるが、電気はついていなかった。どうやら本当に入浴中らしい。望はバスタブへ続く扉を開ける。
 曇りガラスの扉の向こうに優香の姿はあった。シャワーを浴びているようで、水音だけが響き、ガラスと彼女の体の間には、無数の湯気が立ち篭めている。扉の手前、つまり今望のいる所には衣服が乱暴に脱ぎ捨てられていた。まるで泥遊びをして帰ってきた子供が、無理矢理母親に服を脱がされたような、そんな乱暴さだった。
「望さんも服、脱ぐ? たまには親子でお風呂に入るのもいいと思わない?」
 曇りガラスの向こうからくぐもった声が聞こえてくる。望は湯気ではっきりと見えない母親の背中を見つめている。顔も望とは反対側に向いていて、背中は殆ど髪の毛の黒にしか見えなかった。
「何か言いたい事があるって、聞いたんですけど」
「あるわよ。だから入って」
「入らなくても用件は伝えられるでしょう?」
「そんな事無いわ。入らなくっちゃ伝えられないわ」
 そう言うと、優香は突然顔を望の方に向け、曇りガラスを開けた。モワッとした湯気が溢れ、その中から全裸の優香が顔を覗かせた。そこには母親と呼ぶにはあまりにも相応しくない、美しい肢体をした女性が立っていた。贅肉も無くくびれている腰、弛みの無い美しい乳房、そしてまだ皺一つ無く綺麗な白い頬を持つ顔。死に逝く時に見た母とは、あまりにも違う体だった。
「さあ、入って」
「‥‥断ります。あなたとは入れない」
「母親と入るのがそんなに嫌?」
「本当の母親じゃない」
「そんな事、知ってるわよ。知ってるから言ってるんじゃない」
 優香は雫の滴る体を望に近付け、何事かと怯える義理の息子の手を取った。そして、衣服を着たままの望をバスタブにまで引きずり込んだ。シャワーは出しっぱなしになっていて、望の衣服や髪の毛や肌を濡らす。肌に濡れた服が張りつく。透けたシャツに浮かび上がる体を見て、優香はぼんやりと微笑んだ。息子とは到底思えない見事な望の体を壁に押しつけ、その首筋に舌を這わせる。
「‥‥何のつもりですか? 母さん」
「ねえ。母さんの体、綺麗だと思わない?」
 そう言いながらも、優香は舌を首から鎖骨へと流していく。そして手で望のYシャツのボタンをゆっくりと外していく。望は抵抗する事も無く、その行為に身を任せていたが、口からは体の反応とは正反対の言葉が出る。体は抵抗出来なかったが、口だけはまだ藻掻いていた。
「思いません。母親を綺麗だと思うなんて、少しおかしいと思いませんか?」
「思わないわ。だって、私はまだ一度も子供を生んだ経験なんて無いから。結婚はしてるけどね、あなたのお父さまとだけど」
「‥‥話って何ですか?」
「これから話すわ」
 ボタンを全て外し終えた手は、望の首へと巻き付いていく。指がいやらしく望の髪の毛に絡んでいく。優香は再び首筋を舐め、そして今度は望の唇に自分の唇を押しつけた。シャワーから流れる水の音だけが反響し、辺りにはもうもうと沸き立つ湯気に覆われてよく見えない。そんな中で、自分に抱きつき、唇を吸っている母と呼ぶべき人。しかし、その淫らに唇を貪るその人は、もう母親ではなかった。単なる、年上の女の人だった。
 望は一度たりとも、優香を母と思った事は無かった。この人は本当の母ではない。この人は父の愛人なのだ。金が目的で父に言い寄った浅ましい雌狐なのだ。だから、憎しみさえあった。しかし、その父ももはや自分の尊敬する父ではない。母への愛を捨て、情欲に満ちた女の色香に誘われた、つまらない男だ。出来る事ならば、あの父が驚愕する姿を見たかった。おそらく光への愛だけであの父は言葉を失うだろうが、他にも奪いたい。もっともっと奪って、自分が捨てたモノの重さを知ってほしい。
 目の前にいる女性はあの父が惚れた女だ。その女が、今自分を貪欲に求めている。何故かは分からない。だが、目の前の現実は幻ではない。この女は淫らに肢体を曝け出して、自分の猛々しい愛撫を望んでいる。この女に相応しい姿だ。望の瞳が怪しい光をまとい、優香を見つめた。それを恍惚に満ちた瞳で見返す優香。
 もう何人女を抱いたか分からない。自分の性器を初めての血で濡らした女は、それこそ星の数ほどいた。所詮、あなたもその星屑の一つなんですよ。望は優香にそう言いたかった。
 望は自分から優香の長い髪の毛が張りついた白く滑らかな背中に手を回した。
「嬉しいわ。やっとその気になってくれたのね」
 語尾の方は、望の方から唇を奪ったためよく聞こえなかった。
 しばらく唇への愛撫を続けていた望は、ゆっくりと優香の唇から離れる。そして、さっき優香がやったように、今度は望の舌が彼女の首筋へと流れ、乳房へと辿り着いてゆく。ちょうど望の頭が首辺りに来たので、優香は望の頭を抱く。ちょうど子供に母乳を与える母親のように。そして、優香はゆっくりと言った。
「今度、パーティーをやる時に私も呼んで欲しいの。いいかしら?」
 ナメクジのように優香の体の表面を蠢いていた舌が、ピタリと止まった。そして望は瞳を丸くしながら顔を上に上げる。そこにある顔は、瞳を潤ませ、早く続きをやってとせがんでいる顔だった。それを見つめる瞳は、母に虐待されるのを恐れる子供のような瞳だった。怯えていた。
「今、何て言ったんですか?」
「だから、今度のパーティーには私も誘って」
 望は驚きながらも、優香の体から離れようとしなかった。腕が驚きで固まってしまって、動けなかったからかもしれない。唇が微かに震えだす。その唇に、優香の指が触れる。水を吸った彼女の指は生きた魚のようにヌルヌルとしている。
「‥‥何故、知っているんですか? もしかして、光も知ってるんですか?」
「光さんは知らないわ。あの子は鈍い子だから、お兄さまの秘め事なんてこれっぽっちも知らないわ。でも、私は知ってる。この屋敷全体を管理している私が、何も知らないとでも思っていたの? 車庫の下にある地下室、防音にされた三階の一室。何もかも、お見通しなのよ」
 立て膝を付き、小さな息継ぎを繰り返す望。あれだけ慎重に事を進めていたはずなのに、一体どこでボロが出たというのだろう? そんな思いが望の頭を通り過ぎていく。通り過ぎては、また新しい疑問が浮かんでくる。それを面白そうに見据える優香。深い眠りについた白雪姫を見つめる魔女のように、冷たく動かない瞳。
「私も興味があるの。不思議な世界に連れてってくれるパーティーを味わってみたいのよ。昇さんは絶対に言わないわ。それに、知っていたのに今まで言わなかったのが何よりの証拠じゃない。ねぇ、いいでしょ?」
 優香はしゃがみこみ、望と同じ視線になる。いや、それよりも少し低い位置になり、望の顔を覗き込むような態勢をとる。望はつるつるした優香の肌を無造作に触れながら、少し押し黙った。そしてゆっくりと答える。擦れ、疲れた口調だった。
「恵美さんや真一郎さんにも聞いてみなくちゃ分かりません。それまで、少しだけ待って下さい」
 そう答えると、優香は残念そうに肩を落とした。しかし、すぐに元に戻り、望の胸板に自分の豊満な胸を押しつけ、肩に頬を寄せる。シャワーのお湯で、肩も頬もほのかに赤く染まっている。望はその仕草にも反応を示さず、ぼんやりと目の前を見つめている。
「分かったわ。明日の午後にでも返事を頂戴。それじゃあ、今日はこのまま私と二人っきりで楽しみましょうよ」
「‥‥何故、僕に抱かれるんです?」
 喉の奥から搾り出すような無機質な声で、望は優香に訊ねる。優香は壊れた人形を不思議そうに見つめる女の子のような瞳で、望の瞳を覗く。
「最近、昇さん相手にしてくれなかったのよ。欲求不満なの、今」
 湯気よりも熱く、マリファナよりも甘く、優香は望の耳元でそう囁いた。耳の奥で粘ついて離れなくなるような、優香の言葉。本当は別の言葉を用意していた。これは保険だった。例え全てを末梢されても、この事実があれば望を家から追い出す事が出来る。昇は自分の体から離れる事は出来ない。元々、肉体関係から始まった付き合いだったのだ。あの男は自分の心よりも体を愛したのだ。自分は体は麻薬だ。今まで何人の男をこうして中毒にして堕としてきたか、優香は数えた事すら無い。
 だから例え血のつながった息子であったとしても、追い出す自信が優香にはあった。しかし、望の弱々しい態度を見た優香はそれを言わなかった。
 望は目の前が真っ白になっている。絶対に当たると思っていたパンチがかわされて、逆にカウンターを食らいリングに倒れたボクサーのように、思考が止まり体の感覚が無くなっていた。さっき一体自分はどんな返事をしたのか、それすら思い出せなかった。
 そんな望の体に絡み付いてくる美しい女の体。抵抗も何もない唇を無理矢理こじ開けて侵入してくる舌。胸に押しつけられる柔らかな感触。身体全体にまとわりついてくる白く細い腕。全てを覆い尽くす湯気。うるさく耳に入ってくる水音。視界の映る女の顔。
 漆黒の髪の毛を首筋に張り付け、濡れた望の髪の毛をかき上げては優香は額に口付けをした。望は優香のなすがままになっていた。ただ、いつもの習慣のように行為を続けようと手だけが動いていた。
 優香は小さな含み笑いをしながら、まるで死人とセックスをしているようだ、と思った。


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